
ただの石積みと見るなかれ。
もし敗れていれば、日本の歴史と民族はいちど途絶えていたかもしれない。それ程までにこの戦いは、日本史において決定的な意味を持っていた。
13世紀、モンゴル帝国は地上最大の国家としてユーラシア大陸を支配していた。チンギス・ハンのもとで始まった征服戦争は、その孫のフビライの時代にピークを迎え、その矛先がついに日本列島へと向けられる。1274年と1281年、モンゴル・高麗の連合軍が九州に侵攻した「元寇(げんこう)」は、日本がその歴史上初めて、国家レベルの軍事侵攻を受けた出来事だ。

この未曾有の脅威に対し、日本はある決定的な防御策を講じた。それが “防塁(ぼうるい)” と呼ばれる、高さと幅ともに2~3メートルある、極めて大掛かりな石造りの壁だ。1281年の弘安の役に備え、鎌倉幕府は博多湾沿岸に長い長い防塁を築いた。これは敵の上陸を阻むと同時に、日本の武士たちが有利に戦える環境を作り出した。この防塁の存在が日本軍を優位に導き、最終的に元軍を撤退に追い込んだ大きな要因のひとつとなった。
その後、この防塁の存在は長い歴史に埋もれていく。400年後の江戸時代には、一部の記録に「石の壁」の存在が伝えられていたが、その所在も位置も分からなかった。転機が訪れたのは620年後の大正初期、福岡各所で大規模な石積みの遺構が発見された。研究が進むにつれ、これが元寇に備えて築かれた防塁であることが明らかになり、その後の発掘調査で、20キロ以上にわたる遺構が確認され、現在もその一部が保存されている。なかでもここ福岡西海岸・今津の防塁は、車通りを離れた静かな松林の奥深くにあり、まるで今日発掘されたと言わんばかりの神秘さを纏う。
ただの石積みと見るなかれ。この壁は、遠い過去を確かに生きた私たちの祖先が、未来に日本人が在り続けるために立てた守護の壁なのだ。
福岡市西区今津(→地図)
今津運動公園前